マキシマイザ

基本的に、もっとよくできるはず、と妥協はあんまりしなかった。

質は別にして、文化祭もファッションショーも合唱コンクールも、この手で作るものは何でも、終わってからも、もっとこうできたよな、と思いついたりして、ちょっと悔しくなったりした。そういう期待や終わりの見えない天井、それを達成できなかったときの差に疲れてきていたのかもしれない。

いまはいい意味でも、時間や予算などのコストのような部分の考え方も必要だから、これはここまででベター、と区切る考え方を覚えたのかな。

そういうの、個人なら追求してもいいんだけれどね。

 

「飽きっぽい」というのは、きっと人より物事の処理速度が速いからだよ。

全力で堪能して満足するまでがただ早いだけ。軽視はしていない。長いこと好きでいられない、というのは少し違うと思うしね。そういった速度で処理(というと機械的だけれど)できるものが多い、ということで。